| C43AMG、そそられますね。W202のC43AMGに乗っていた私としては、型番が同じだけで、なんだか「他人」の気がしません。しかし、わんこさんが
>私は間違えた見方でC43を感じ取って・・・
>スポーツカーとしてC43を走らせれば 1発で凄さが・・・
>今回は自分のバイアスがかかった見方の問題を痛感・・・
>もっと個性を活かしフラットに車を乗って感じ取らないと・・・
とおっしゃるのを読んでいて、「なるほどー」と深く感じ入りました。
車は本来は道具ですが、「用もない」のに乗りたくなる車が、まさに魅力的なものだと思います。つまり、車が自分にとって道具以上のモノであることの実感です。たとえば、旧いライカを手にして、シャッターを切って悦に入る時があります。フィルムは入れてはいけません。撮ってはならないのです。そうではなくて、巻き上げ、シャッターを切る、この動作とそこでの機能音に酔いしれるのです。
目下、近所を駆け回るスニーカー(318ti)、登山靴(ランクルプラド)、そしてパーティでダンスも、かつまたアクションもできるジェームズ・ボンドが履くような革靴(CL)を愉しんでいます。tiとプラドはそれぞれトンネルを避けわざわざ峠道に、舗装された新道を避けわざわざ酷道・悪路に、「用もなく」行きたくなる車です。
ではCLの「用もなく」「わざわざ」は何か! それは、(他にもあるのは承知のうえで)とりあえず今の私には「極上の乗り心地」です。なにしろ、座っていることが悦びです。癒やされます。包み込まれ、抱擁されるかのように思わせるCLの抱擁力です。仕事用のイスにもそこそこ凝っていますが、それは機能的・実用的に素晴らしいとして、CLのそれは極楽なのです。だから、目的地に着いても降りたくない。用もないのですが、そこらをわざわざもう一周しようか、という感じです。私は、この三台の個性・性能をそれぞれスニーカー、登山靴、上質の革靴であるかのように見ることで、とても満足しています。
さて、そこでわんこさんのC43 AMG。わんこさんが書かれた「見方」をもって初めてその素晴らしさに触れることのできるC43。きっと、とても素晴らしいのでしょうね。でも、もうそうなったらいくつ「見方」があっても足らないのでは・・・、と思うことにします。また、年々進みゆく加齢故の衰えは、もうその「見方」を持ち得ないだろうなとも。そして逆にそれだからこそ、このCLにぞっこんなのだろうなとも。事実、三台のうち、一番乗っているのがCLということになりました。近場のスーバーから、ちょっとした峠、高速はもちろんのこと、山道に入ってしまったときは車高を上げて、恐る恐るながら進んでいます。万能なのではありません。極上なのです。とはいえ、気になるC43 AMG。身体は衰えてきても、まだ血は騒ぎます。
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